進行性核上性麻痺(父の生涯)

その他

父は2008年、自分で異変を感じたのか、病院に行き、始めはパーキンソン病と診断されました。

私も父に会う度に声は出るけれど、話しづらそうな、すらすら言葉が出しにくいような父に異変を感じていました。3年目から一緒に住み始めました。徐々に最初の1歩が足がすくんで出せない。歩き始めると止まらない症状が出始めました。

2013年言葉もあを一言言うと『あ あ あ 』と最初の言葉がなかなか出せなくなり、日に日に一生懸命話をしようとするけれど声も出なくなりました。

病院とリハビリ(歩行の練習、言葉を話す練習)に月2回ずつ通いリハビリの先生に介護認定を紹介してもらいました。家に歩行器具を取り付けてもらい、介護べっとやお風呂場や玄関には段差をつけ先生との面接を何度も行いました。

2015年施設に入る準備。いろんなところに父と見学に行きなかなか空きもなくて金銭の事もあるし、相当悩みました。安い介護施設は空いてなくて2年以上空くのを待つ状態でした。その間に父が家の周りの事も出来なくなったらどうしようと、仕事も休むことも出来ないし、つらい状況でした。

身体障害者手帳をやっともらう事が出来ました。病院の先生に進行性格上性麻痺がどの様に進んでいくかゆっくり読まれた時、父の表情がかなしそうだった。途中まで読ん下さって先生が父に『だいじょうぶですか』と問いかけた時、父は『もういいです』と声を震わせながら小さな声で言った言葉が頭から離れない。その資料を私だけ家に帰って読むつもりだったけど、父はその資料を握りしめてみせてくれなかった。私の頭の中に1年2年立つ間、資料すててしまったのかなぁとずっと残っていた。あの時見せてくれなっかったけど読んでおくべきだった。その資料を読んでいれば、父の病気の進行がわっかってあげられてもっと近くで支えてあげられたのかなと思う。今思うと私にかなしい気持ちにさせたくない父の優しい行動だったのかもしれない。

2016年父も一生懸命、自分でやろうとする気持ちと、だけど身体はうまく動かす事ができなくて、顔からこけて顔を負傷し、後ろにこける頻度が多くなりおしりはあおじだらけになり言葉も話せないしつらかったと思う。家の周りの事も出来なくなっていきました。

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